なぜ名選手は名監督にあらずと言われるのか?
名選手名監督にあらず。
スポーツの世界ではまことしやかに言われています。
果たしてそうなのでしょうか?
日本のスポーツ界においては、名選手が監督になるという傾向が強くあります。
暗黙のルールというものかもしれません。
しかし、そのすべてが名監督にならず、入れ替わっていきます。
そんな中で名監督と言われる人も出てきます。
この人たちの違いはなんでしょうか?
同じように高い実績を上げ、監督として呼ばれてその座に着いた。
監督として結果を残した人と残せなかった人の違い。
それは、
「考え方を押し付けない」
だと思います。
過去に実績を上げた人の場合、自分のやり方(だけ)が絶対(正しい)と思いこむ傾向が強いといわれます。
その(自分の)やり方を押しつけようとすることで、相手を潰してしてしまうという結果に導いてしまうことがあります。
「俺はこのやり方で成功したから、これが正しい方法なんだ!」
そんな風に思いこんでいしまっている指導者であれば、特に注意が必要になってくるわけです。
また、実績を上げた人の中には、理論的な人もいれば直感的(感覚的)な人もいるでしょう。
理論的な人では理屈っぽくなり、直感的な人では抽象的な言い回しとなることが多くなります。
すると、自分と真逆な方針で指導された場合にも、先ほどと同じように相手を潰してしてしまうという結果になってしまうことも。
さらにいえば、実績を上げた人には「これくらいは言わなくても判るだろう」という基準が高くなる傾向もあります。
となると、肝心な基礎の部分を端折られてしまったりすることもあり、応用部分だけの指導になってしまうということにつながります。
こういったことが、スポーツの世界では「名選手は名監督にあらず」といった言い方で使われてしまうのでしょう。
しかし、それはビジネスの世界でも一緒ではないでしょうか。
いくら自分が実績を上げたからといっても、同じやり方を押しつけたところで、
誰もが同じ実績があげられるわけではありません。
ここで大切になってくるのが、自分にとって、マッチしたやり方が、他人にもマッチするかどうかは、分からないということです。
この人に合った方法が、あの人にも合う方法なのかはわかりません。
これはどこまで行っても個別のケースということになるでしょう。
名監督と言われる人達は、プレーヤーとの立場の違いをはっきり意識し、リーダーとして、そして教育者としての立場を理解した行動をとっていける人達だと思うのです。
私の持論ですが、
物事において正しいやり方はいくらでもあるが、
自分に合ったやり方はそれほど多くは無い。
いかにそれを早く見つけることができるかが、
努力であり結果である。
そう思い、プレーヤーとしての自分と、
リーダーとしての自分を切り離して行動するの(しているつもり)であり、
行動していきたいと思っています。
最後に、山本五十六氏の名言を。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
相談されたのならば、
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、
ほめてやらねば、人は動かじ。